老人と海とメルカリと – ThinkPad S30を追い続ける日々

泣き別れたあの日から、ずっと胸の奥がざわついている。

手放したのは、伝説のB5モバイル──ThinkPad S30。

泣き別れたThinkPad s30

理由など、とってつけたようなものばかりだ。

後になってみれば、ただの気まぐれと、メルカリの出品ボタンに指が触れた一瞬の魔が差しだった。

その後悔は、思いがけず僕を机に向かわせ、気づけば「老人と海」を下敷きにした小説めいた記事を書き上げていた。

これは、たった一台のフラットブラックをめぐる、獲物との出会いと別れの記録である。

そして次に出会ったら、もう離さない。

注記フラットブラックは、ThinkPad S30の法人向けモデルで、光沢のある「ミラージュブラック」とは異なり、落ち着いたマット仕上げを特徴とする表面仕上げの名称である。質感や色合いには実務向けの渋みがあり、コレクターの間でも希少とされる。

目次

序章 ─ 2020年、港で見つけた黒いカジキ

あの日、僕はいつものように、中古市場という名の大海原を漂っていた。

港町の漁師が朝焼けの水平線を見つめるように、僕はスマホを片手に「ヤフオク海峡」と「メルカリ湾」を行き来していた。

魚影はまばらで、時折、傷だらけの小魚(ジャンク品)や、値札の高すぎる巨大魚(過剰にプレミア価格のモデル)が目に入るだけ。

正直、この日も大した収穫は望めないと思っていた。

しかし、その瞬間は不意に訪れた。

メルカリの波間に、黒く沈んだ影がゆらりと浮かび上がったのだ。

ThinkPad S30──あの伝説の名機。

ミラージュブラックの初期型ではなく、法人向け仕様のフラットブラック

ツヤを抑えたその天板は、夜の海面に潜む魚体のように静かな迫力を放ち、スクリーン越しでもただならぬ気配を感じさせた。

写真には左右にはみ出したキーボード、無傷のパームレスト、そして説明欄には短く、しかし決定的な一文があった。

「動作確認済み、完動品」

その二文字に、僕の中で何かが爆発した。

しかも価格は2万円。

この港で、完動の大物がそんな値で釣れることなど、奇跡としか言いようがない。頭の中で、相場だとか冷静な判断基準といった網はすべて破れ落ちた。

「今日こそ釣り上げたぞ」

自分でも驚くほど低い声でそう呟き、購入ボタンをタップする指は、まさに海の男が銛を打ち込む瞬間の緊張と高揚を帯びていた。

その刹那、画面に「取引が開始されました」の文字が浮かび、潮風が心の奥まで吹き込んできた。

僕は確かに、黒いカジキを釣り上げたのだ。しかもそれは、生き生きと泳ぎ続けるフラットブラックの完動品だった。

S30という獲物 ─ フラットブラックの渋みと機構美

ThinkPad S30。その魚体はB5サイズの小型艇にも似ているが、左右にはみ出したフルピッチ・キーボードは、まるで外洋を悠然と泳ぐカジキの長い胴体のようだ。

中央にそびえる赤いトラックポイントは鋭い吻(ふん)のようで、ほんの指先の力でカーソルを滑らせる。

背面からのぞくチルトスタンドは、海流を切り裂くヒレさながらに、持ち主の手首を支え続ける。重量はわずか1.45kg、そして最大6.5時間の航続力──小ぶりながらも、嵐の海を走り抜ける力を秘めた真のモバイル艇である。

余談であるが──このS30という機種、世に出たのは2000年代初頭、いわゆる「モバイルPC元年」の熱気がまだ冷めやらぬ頃であった。

当時のノートPC市場は、A4フルサイズ機が主流で、B5サイズ以下の筐体は「持ち歩けるが打ちにくい」という宿命を背負っていた。

IBMの大和研究所は、この宿命を打ち破るべく、ほとんど無謀ともいえる設計思想を掲げた。「小さくても、キーボードだけは妥協しない」。

その結果、B5サイズの筐体に、A4並みのフルピッチ・キーボードを強引に押し込み、左右にはみ出させるという離れ業に到達したのである。設計者の中には「机の上で少し幅をとるが、これこそが指が喜ぶ幅だ」と豪語した者もいたという。

このモデルには2つの顔があった。一般向けの「ミラージュブラック」と、法人向けの「フラットブラック」である。

前者はピアノのような光沢を持ち、陽光を受けてキラリと輝く派手な装いだったが、後者はツヤを抑えたマット仕上げで、まるで使い込まれた漁師の銛のような渋みがあった。

今回、僕が釣り上げたのは後者──フラットブラック。これは装飾よりも実務を重んじる者に選ばれた、いわば“海のプロ”の道具であった。

搭載されたCPUはMobile Pentium III 600MHz、当時としては省電力と性能のバランスを兼ね備えた逸品である。

メモリは標準128MB(最大256MB)、HDDは20GB、そしてグラフィックはSMI Lynx 3DM4。液晶は10.4インチXGA(1024×768ドット)、1,677万色表示のTFTパネルだ。

USBはまだ1.1規格、無線LANはIEEE 802.11b対応で、当時の公称速度は11Mbps。今となっては遠い昔の数値だが、当時はカフェでメールを送るだけで「未来を持ち歩いている」気分になれたものである。

また、この機種の航続距離──つまりバッテリー駆動時間は6.5時間。

これは2001年当時のB5モバイルPCとしては驚異的な数字であった。外形寸法は257×213×22mm、重さは1.45kgと、ブリーフケースの中に忍ばせても肩に負担をかけない。

付属品には予備のトラックポイントキャップが入り、これは言わば予備の銛先のようなもの。船出の前に替え刃を確認する漁師の気持ちにさせられる。

司馬遼太郎風に言えば、このS30の登場は、モバイルPCの歴史における「一隻の快速艇の進水式」であった。大和研究所はこの設計を通じて、単なるスペック競争ではなく、「使い勝手」という海域へ船を進めた。

後のThinkPad Xシリーズの礎になったのも、この大胆な設計思想にほかならない。

すなわち、S30とは単なるノートPCではなく、IBMがB5サイズという狭い船体に、外洋を渡るだけの性能と人間工学を積み込んだ、ある種の実験艦だったのである。

そして、かつて僕の手元にあったフラットブラックのS30は、発売から20年以上経った今もなお、蓋を開けば赤いトラックポイントがこちらを見つめ、キーを叩けば軽やかなクリック音が返ってきた。

その姿は、古びた漁船ではなく、手入れの行き届いた小型艇のように凛としていた。完動品──それは単なる動作確認ではなかった。この機種が持つ魂が、最後まで波間を駆け抜けていた証拠であり、だからこそ今、その不在が一層深い潮のように胸に満ちてくるのだ。

ThinkPad S30のスペック一覧

項目内容
OS分類DOS/V
製品IBM ThinkPad S30
メーカーIBM
標準価格208,000円
発表日2001/10/24
発売日2001/11/02
製品名ThinkPad S30
CPUMobile Pentium III 600MHz
CPU名称Mobile Pentium III
チップセットIntel 440MX
バンドルOSWindows XP
セカンドキャッシュ256KB CPU内蔵
メモリ容量標準 128MB / 最大 256MB / オンボード 128MB
メモリスロットスロット数 1(空き 1)、増設単位 1、SDRAM PC100
ハードディスク20GB
PCカードスロットTYPE I/II×1、CardBus対応
メモリメディアスロットCF TYPE II×1
グラフィックコントローラSMI Lynx 3DM4
有線インターフェースモニタ ミニ端子×1(アダプタ付属)、USB 1.1×2、56Kbps V.90
無線インターフェースIEEE802.11b準拠無線LAN
ディスプレイ10.4インチ TFTカラー、XGA(1024×768)、1,677万色
ディスプレイタイプTFT
外形寸法(W)257mm × (D)213mm × (H)22mm
重量1.45kg

蜜月の半年 ─ 穏やかな凪の日々

S30との日々は、凪いだ海をゆったりと漂う航海のようだった。

港を出てすぐの海面は静かで、風は優しく、陽光は黒い船体に柔らかな陰影を落とす。僕の手元には、あの日メルカリ湾で釣り上げたばかりの、フラットブラックのThinkPad S30があった。

だが正直に言えば、その小さな艇は現代の大海原を走り抜けるには力不足だった。搭載されていたOSはWindows XP – 2000年代初頭の潮流を泳ぐための帆であり、今のネットの荒波に出るにはあまりにも小ぶりだった。

Webサイトを一枚開くにも時間がかかり、YouTubeどころか、SNSの波間にも満足に漕ぎ出せない。それでも僕は、その不便さを差し引いても余りある魅力をこの船体に見ていた。

つまり、この半年間、S30は航行する船ではなく、むしろ書斎の片隅で波間を見つめる古参の灯台守のような存在になっていたのだ。

電源を入れずとも、その姿かたちは持ち主の心を満たす。フラットブラックの天板は、光を吸い込むような深みを持ち、触れれば指先にしっとりとした感触を残す。

左右に広がるフルピッチ・キーボードは、実際に打つ機会はほとんどなかったのに、ただそこにあるだけで「いつでも出航できる」という安心感を与えてくれた。

ときおり、僕は理由もなくS30の蓋を開いた。

電源ボタンを押すと、HDDが低く唸り、液晶が静かに光を灯す。その瞬間、20年前の空気が部屋に流れ込んでくるようだった。

壁紙には、前の持ち主が設定したままの初期的なブルーの背景が残っており、どこか昭和の写真館の背景幕を思わせた。

僕はキーボードに指を置き、数行のテキストを打ってみる──しかし、それ以上の作業には進まない。なぜなら、用途を求めれば求めるほど、この機体が現役で活躍できる時代はすでに遠く過ぎ去ったことを痛感させられるからだ。

こうしてS30は、やがて観賞植物のような存在になっていった。

いや、正確には観賞植物よりも動かない。むしろ横須賀に鎮座する戦艦「三笠」に近いかもしれない。

もはや出航することはないが、その甲板には歴史と美学が宿っている。S30も同じだった──一度は時代の最前線に立った機体が、今は机上で静かにその姿を保ち続けているのだ。

毎日メンテナンスをする必要もなければ、性能が向上することもない。それでも、その存在は確かに部屋の空気を変えていた。

書棚の横でどっしりと鎮座し、その横を通るたびに、僕は「この厚みこそThinkPadの美学だ」と小さく頷いた。現代の薄型ノートにはない重量感と存在感が、むしろ安心感としてそこにあった。

そうして半年のあいだ、僕は凪いだ海を進むような静かな満足感を味わっていた。S30は波を立てず、ただそこに在り続ける──それだけで十分だった。僕は、この穏やかな日々が永遠に続くと思っていたのである。

突然の嵐 ─ メルカリに出品してしまった日

なぜ、あの日、僕はS30を手放してしまったのか。

気まぐれと言えばそれまでだが、今振り返ってもその理由は靄の中にある。ほんの一瞬、心の中に吹き込んだ突風が、僕をして不可解な舵を切らせた──そう言うほかにない。

高尚な理由を探そうとしたこともある。

「自分のコレクションを厳選するため」「次の所有者に託すため」「新しい機種を迎えるための資金作り」……そんなもっともらしい理屈はいくらでも思いついた。だが、そのどれもが表向きの旗にすぎず、内心ではそれらが虚しく風に揺れていることを自覚していた。

思い返せば、あのとき同時に所有していたThinkPad X31も二台、なぜかまとめて手放してしまった。

X31は僕にとってB5モバイルのもうひとつの金字塔であり、ある意味S30の後継的存在でもあった。その二台をも含め、一度に三隻の小型艇を港から送り出すような暴挙に及んだのだから、理屈で説明できるはずがない。

s30といっしょに手放したX31 2台

では本当の理由は何だったのか。

おそらく、それは「魔が差した」というべきだろう。深夜、何気なくメルカリの出品画面を開き、写真を撮り、説明文を打ち込み、価格を入力して「出品する」をタップしてしまったあの瞬間。

海面が急に凪いだかと思えば、突如として暗雲が広がり、進路を狂わせる突風が吹き付ける──まさにそれに似ていた。

そしてもうひとつ、薄々気づいていたことがある。

細君がかつて「ガラクタはそろそろ処分したら?」と笑いながら言った言葉が、心の奥底に沈んでいたのだ。彼女に悪気はない。だが、その一言が長い年月をかけて水面下で膨らみ、あの日、風となって背中を押したのかもしれない。

梱包の作業は、まるで釣り上げた魚を再び海へ放すようだった。

S30のフラットブラックの天板を柔らかい緩衝材で包み込むと、指先に伝わるその感触が、最後の航海を終えた船体に触れるようで切なかった。ガムテープを引き出し、段ボールの口を閉じる。粘着面が箱に貼り付くバリバリという音が、港を離れる汽船の汽笛のように低く響く。

貼り終えた瞬間、僕はしばらくその箱を見つめていた。

中にいるのは、ただのパソコンではない。かつては最前線を駆け抜け、今は静かに港に繋がれていた退役艦──それがいま、自らの手でタグボートに曳かれ、外海へ向けて送り出されようとしている。

僕はその「艦」を車に積み、ヤマト運輸の営業所へ向かった。

カウンターで伝票を手渡す瞬間、港の桟橋から出港する退役戦艦を見送る老海軍士官のような感覚が胸をよぎった。
奥へ運ばれていく段ボールの背中が、じわじわと視界から消えていく。

その夜、机の上にはぽっかりと空白が残っていた。

それは単なる物理的な空間ではなく、指先の記憶と心の一部を持っていかれたような空白だった。

そして僕はようやく悟った──これは嵐ではなく、自らの意思で起こした「離岸」だったのだ。

だが、後悔という波は、出港の決断を止めることはなかった。

静かな港 ─ 空席になったデスク

翌朝、デスクは異様なほど静かだった。

まるで夜明け前の港町のように、空気が澄みきっているのに、どこか物足りない。

そこには昨夜まで確かに鎮座していたはずのS30の姿がない。黒い船体のような天板も、左右に張り出したキーボードの船腹も、赤いトラックポイントの鋭い吻も──すべてが潮とともに流れ去ってしまった。

代わりにそこにあるのは、現在の愛機であるThinkPad X13 Gen 6。

S30から数えて脈々と続くXシリーズの末裔だ。性能も表示品質も、あらゆる面で現代仕様になった頼もしい後継機である。

しかし、家族の世代交代が30年単位で行われるのに対し、パソコン界はネズミのように鼓動が速く、1年単位でモデルチェンジを繰り返す。

そう考えると、S30とX13の間には、もはや600年ほどの時代の隔たりがあるようにも感じられる。鎧武者と現代特殊部隊を同じ机に並べるようなもので、両者は確かに血を分けた親戚なのに、その間に積み重なった時間はあまりに深い。

僕は椅子に腰を下ろし、無意識に手を机の上に伸ばす。指先は、かつて覚えた配列を探し、虚空をさまよった。

ホームポジションに置いたはずの薬指と小指が、宙を掻く。そこにはもう、確かにあったはずの段差やキーの縁取りはない。指は空を切り、そのたびに心の奥で小さな波紋が広がる。

まるで港に帰った漁師が、網の中を覗き込む瞬間のようだった。

昨夜まで魚影であふれていたはずの網は、今は空虚で、濡れた縄の匂いだけが残っている。漁師はその匂いを嗅ぎながら、頭のどこかで分かっている──この網にはもう、あの魚は二度とかからないのだと。

机の上の空白は、想像以上に重たかった。何度も視線を向けては、そこにS30の姿を幻のように見てしまう。

あのフラットブラックの渋い艶が、陽の光を鈍く反射している情景を、ありありと思い描くことができる。

だが次の瞬間、目に映るのは現実の空席。そこには冷たい机の天板と、必要以上に静かな空気だけがある。

もっとも、X13 Gen 6にもX13なりの魅力がある。最新のCPUによる快適な動作、明るく高精細な液晶、そして堅牢さを失わない軽量設計──それらは確かにS30の末裔として受け継がれた資質だ。

興味のある方は、ThinkPad X13 Gen 6の詳細レビューをご覧いただきたい。

きっと、S30とX13の間に横たわる“600年”の旅路を感じ取っていただけるはずだ。

そして僕はふと気づく。港から船が消えたとき、海はますます静まり返るのだ。波が立たない海は穏やかで安全かもしれない。しかし、それは同時に、旅も漁もない、ただの水溜まりのような日々の始まりでもある──そんな予感が、背筋をひやりと撫でていった。

老人と海とメルカリと

パソコンの前に腰を下ろすと、もはや条件反射のようにブラウザが開き、ヤフオクとメルカリのタブが並ぶ。

そして検索窓をクリックすると、候補欄の最上段には「ThinkPad S30」という文字列が、まるで宿命のように現れる。

そう、もう何百回も打ち込んできたせいで、僕の指は文字を入力することすら忘れたのだ。

ただエンターキーを軽く押すだけで、目の前には見慣れた中古PCの波が押し寄せてくる。

波間には、キーボードの欠けた小舟のようなジャンク品や、法外な値札がついた金箔張りの怪魚のようなモデルが漂っている。

ときおり「これは!」と思わせる影が見えても、詳細を覗けば塗装ハゲ、液晶シミ、バッテリー死といった“釣ってはいけない魚”であることがわかり、ため息とともにタブを閉じる。

そんな日々がもう何日も続いている。

だが、S30が海面近くまで浮かび上がる瞬間を逃さぬよう、僕は毎日同じ航路をたどる。
もはやこの習慣は執念を通り越して儀式に近い。

「S30が出品される日を待つ僕は、もはやデジタル時代のサンチャゴだ」──そう自嘲気味に笑いながらも、今日も僕は竿を握る漁師のような眼差しで、画面の波を凝視している。

夢の中のフラットブラック ─次に出会ったら、もう離さない

手放してしまったあの日から、S30の姿は、まるで遠くの沖合を悠然と泳ぐ大魚のように、幾度も夢に現れた。

夢の中で、それは静かに机の上に横たわり、フラットブラックの艶をわずかに光らせていた。

赤いトラックポイントは鋭い目のようにこちらを見つめ、ひとたびキーを押せば、潮風に溶けるような軽やかなクリック音が返ってくる。その響きは、波の音とも、帆を鳴らす風の音ともつかない、不思議な音色だった。

人は失ったものを美化すると言う。

しかし、S30についてはそれは当てはまらない。あの機構美と存在感は、現実こそが最も雄弁だった。

B5の小舟に詰め込まれたA4級のフルピッチ・キーボード、規律正しいキー配列、そして背面から伸びるチルトスタンドは、まるで荒海を切り裂く竜骨のように誇らしくそびえていた。

それは所有する者だけが知る、海図にも載らぬ秘密の入り江だった。

あの日、僕は不意の風に舵を取られた漁師のように、この大魚を手放してしまった。

理由は取るに足らぬもの──ほんの気まぐれ、あるいは家庭の波風。そのときは「またいつでも釣れる」と思っていたが、時が経つにつれ、その甘さを悔いる気持ちは増していった。

次にもし、この海で再びあの魚影を見つけたなら、僕はもう迷わない。

銛を握る手に迷いを捨て、波が荒れても糸を切らず、甲板に引き上げるまで耐え抜くだろう。そして今度こそ、港に着くまで、いやその先までも、絶対に船から降ろさない。

写真だけでは足りない。僕は再びその手触りを確かめ、潮に晒し、日々を共にしたい。s30よ──お前は僕のマーレン(大魚)だ。

水平線の向こうでまた会おう。次こそは、永遠に。

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